カーニバル*1装置


仮の衣装として機能したのは匿名化して現実から遊離した私たちが打ち込む反射的で卑俗な(あるいは高尚な)言葉。
会場の人たちはリアルタイムで付けられる無遠慮なコメントの中に自分の思いつきと同じものを見つけたりするような体験をするうち、不用意にも思ったことがコメントになって流れてくるような錯覚*1に、心を誘われるようになり、無遠慮な愚者に接続される。
同時に会場で自然に要求されていたあたりまえの感覚、現実生活の規律が異化されて、その輪郭を浮き彫りにしていく。
そして浮き彫りになった自己の多義性の矛盾を臨界に達させる毛髪の欠如。

此処は遠い太古の市、ここに一人の武士がいる。この武人は。恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦を交えねばならぬという羽目に陥る。その煩悶を煩悶として悲劇的に表すのも、その煩悶を風刺して喜劇的に表すのも、ともにそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない矛盾を孕んだ全的なものとしては表わし難いものである。ところがファルスは、全的に、之を取り扱おうとするものである。そこでファルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さに於て、?み合いの大立廻りを演じさせてしまうのである。そして彼等の、存在として孕んでいる、凡そ有らゆるどうにもならない矛盾の全てを、爆発的な乱痴気騒ぎ、爆発的な大立廻りによって、ソックリそのまま昇天させてしまおうと企らむのだ。
 
坂口安吾「FARCEに就いて」

いろいろと思った。
とりあえず、中心化をやるなら一人でやろう。対話を離れてやろう。と思った。
否定は修羅の道と思った。何で固めたらあんなに歩めるんだろう。
そもそもこんなことを考える程の問題じゃないのかもしれないが、まあしょうがない。
参考になりました→「ハゲのおっさんから一言」のブクマコメがあまりにも気持ち悪すぎる件[2] - 雑念雑記はてな出張所

*1:それを可能にさせたものが何なのかはわからない。彼らの顔も名前も人数も見せず、そのコメントを映像に覆いかぶし、全てを追えないような量をもって流していくニコ動の形式とか思いつくけど。